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チョコタフと異世界への冒険

チョコタフが好きなゲーム・舞台・漫画・アニメ他への愛を語る場所。目指すのは究極のオススメ集。

「○○化」を考える

今日は舞台のお話。
またまたVISUALIVE『ペルソナ4』を例にとります。この作品についてはいろんな面から触れたいのです。
 
前回、この作品を通して「舞台化」について考えてみました。今回は、その話をもう少し広げて、「原作以外の媒体にすることの意味」を探ってみます。

探る…という言葉は、語弊があるかもしれません。なぜなら、私自身の結論は既に用意されているから。
その結論とは、「それでしか味わえない面白さがある」です。
 
例えば、舞台を観ることで得られるものって、やっぱりゲームのままじゃ得られない面白さだったりするんですよね。
それは何かと言うと、自分と同じ世界にペルソナ4の世界を持ってきてくれる、ということだと思っています。
 
分かりやすいのが、身長。ゲームの中だとあまり気にしないんだけど、舞台では身長差に異常に萌える。
なぜなら、スケールが「(客席の)自分」基準で測れるから、とでも言えばいいのかな。確かなリアリティをもって、そこに存在することが、すごいパワーを秘めていると思うのです。
 
原作(というよりアニメ?)では、陽介は主人公より結構小さいのですよ。主人公の身長は不明ですが、陽介は175㎝。
そして、舞台においても、似たような比率だったりするわけです。陽介を演じた前山くんは172㎝で、主人公役の馬場徹ことばーちょんは182㎝。
これは!!!と、なるわけですね。

あるいは、千枝ちゃんの場合、158㎝なのに対して演じた皆美ちゃんは162㎝ありますが、主人公よりもかなり小さいということがポイントでありまして。

こうなると、原作のシーン再現の威力がものすごいわけです。

陽介コミュで衝撃だった「それは女の子にやれよ」の場面が、舞台上で再現された時のあの驚き…。息が止まるかと思いました…危うく目覚めるところだった…。
 
同じく陽介の、女装の場面。完二の「ないわ」と感じる女装再現度にもびっくりしましたが、陽介の「なくはない」女装をこなした前山くんにあっぱれ。
その差を作り出したのは、紛れもなく、キャスト自身の体格です。
(一般的には「ないわ」レベルの女装完二ですが、個人的にはすごく…はい)

あとは千枝ちゃんと主人公の二人のシーン。ゲームの直接的な再現ではなかったかと思いますが、主人公が千枝の頭をポンポンと優しく叩いて無言で慰めるのは、正に二人の関係を表してて感無量でした。

千枝は雪子よりも小さいですが、性格が男気溢れるだけに、「女の子」を強く感じさせません。しかし、それは同じ女性である雪子の隣だからです。
隣が、大きて体格のいい主人公なら話が違う!
やっぱり「女の子」なんですよ。それを感じさせる身長差にグッとくるものがありました。
 
とはいえ、千枝は「女の子」であることを武器にしない子なので、弱っていたとしても、あのポンポンくらいの距離感がちょうど良く、かつ、その姿を主人公にしか見せないというところが、正に千枝でございました。
 
ゲームでは、一周目から、千枝ちゃん恋人一筋ルートなので、やたら思い入れだけはあるのです。だから、好きな関係性が舞台で再現されていることに、ただただ感動なのでした。そして、これまた身長が担う役割は大きかったというわけです。

ということで、陽介と千枝ちゃんは、主人公と並んだ時に身長差に萌えたコンビです。これはかなり衝撃でしたし、これこそ舞台化の醍醐味!!と思えた出来事でした。

それをふまえると、同じ実写化でも、それが舞台か映画(ドラマ)かで、感じ方も大きく変わってきそうです。
現実社会から離れていればいるほど、舞台のほうが適したメディアに思えます。舞台空間では、「嘘」も「本当」になりますから。

話を戻すと、もちろん「ゲーム(原作)→舞台」以外にも別のメディア化する手段があり、その数だけ、あるいはそれ以上に別の面白さを生む可能性を秘めています。
「マンガ→アニメ」は動きや音という要素、「マンガ→ゲーム」はインタラクティブな遊び、「ゲーム→アニメ」は世界への没入感などなど、色々挙げることができそうです。
加えて、二つが組み合わさることによって生まれる面白さもあります。

もともと本(活字)のテレビドラマ化は一般的でしたが、両者は、文字情報と視覚情報という大きく異なる性質を持っています。だからおそらく、文字であることの意味や、絵であることの意味を持ちやすかったのではないでしょうか。

しかし最近は、「○○化」の選択肢が増えすぎて、複雑になり、「その媒体だからこその面白さ」がおざなりになっていることが多いような。
もちろん、素敵なものも多いのですが。
 
私は、「別のメディアにすることの意味」は「新しい面白さ」を提供できることにあると考えているので、そこは、はずせないのですよ。
面白さが生まれる可能性を、可能性で終わらせてほしくないですね。
だって、もったいないですから。
 
おわり。